今日は、らっきょうのことについて伺いたいと思います。
そうですね。
らっきょうといえば、春先から夏の初めにかけて八百屋に並びます。
それを逃さず買い求めます。この時期を逃すと、もうそのシーズンはらっきょうは手に入らないのです。そうなると1年待たなければなりませんが、らっきょうのために1年間思考回路のどこかを無駄にするほど暇ではないのです。
らっきょうを買い求めたら、ただちに泥と薄皮を洗い落とし、天地を切り落とし、酢と塩を良い塩梅に調合した液体につけ込みます。
らっきょうと聞くと、以上のような事が直ちに頭にうかびますね。
今年はすでにらっきょうの季節は訪れています。
そうなのです。
昨日無事らっきょうを買い求め、漬け込みました。
それはそれでハッピーエンディングなのですが、それに至るまでに、今年は少しだけ面白い事がありました。
私は今住んでいるところに引っ越して来て以来、野菜を買う時は近所の八百屋を利用しています。夫婦なのかどうかはよくわかりませんが、高齢にさしかかろうかと言った風な女性と男性が切り盛りしている八百屋です。
ところでこの2人ですが、実は2人ではなくて3人だという事が最近、分かりました。
女性は1人なのですが、男性が2人いたのです。よく似た顔と服装だったので気がつきませんでしたが、あるとき、少しおかしいなと。
ミステリーになりそうです。
まさしくミステリーです。
これは怖いですよ。夫婦だと思っていた2人が、実は3人だった。この3人が毎日せっせと八百屋を切り盛りしているのです。2人から3人になったとたん、全てが謎になります。
人の理解とは、いかに紋切り型のイメージに支えられているか、ということを端的に示す出来事だったと思います。
話がそれましたが、何はともあれ、この八百屋、モノがとても良いのです。
とくに安いとかそういう事ではないのですが、どれもとても美味しいし、はずれが無いし、長持ちするのですね。
3人のうち誰かが、もしくは全員が、目利きなのだと思います。この界隈はスーパーマーケットが軒を連ねてありますが、この目利きが健在でいるうちは、この八百屋は大丈夫だと思っています。
スーパーマーケットは確かに安いですが、目利きがいないのですね。もしくは、方針が違うのでしょう。大量に安価に仕入れて、売り切るまでしぶとく売るのです。たまに見切り品、などといって傷んだ野菜をディスカウントして売っていますね。
個人商店は、相談しながら商品を選べるといった利点もあります。
そのとおりです。
個人商店では、これはなんですか、これはなにに使うのですか、といった基本的な質問に対して、回答が返ってくるのです。
これは当たり前の事のようですが、そうではありません。
スーパーマーケットで同じ事を、店員に聞いてみてください。回答が帰ってくる事はまれだと思います。
なぜなら、スーパーマーケットにおいては、市場に行って野菜を買い付けてくる人と、売り場で野菜を並べている人は必ずしも同一ではないからです。異なる場合の方が多いでしょう。分業の結果ですね。
個人商店では、市場で買い付けてくる人と、陳列する人、会計をする人が同一の場合がほとんどです。
自分でやるしかないからそうする、といった必然の結果ですが。
どちらが良いとか悪いとかではなくて、私にとっては、個人商店の方が向いている、という事なのです。
また話がそれてしまいました。
そこで昨日の話になるわけです。この時期になると、私はいつらっきょうが八百屋に出始めるのか、気になりだします。八百屋を通り過ぎるたびにらっきょうはありませんか、と聞き続けてきました。それは私にとっても八百屋にとっても、すこしだけ気まずい期間だったと思います。
らっきょうはありますか、まだきてないですね、もう少しで来ると思うのですが、というやり取りを数回繰り返したあと、昨日、ついにらっきょうが届いたのです。
らっきょうはありますか、ときくと、ありますよ、となるわけです。
ところが、この後に予期せぬことが起きるわけです。
甘酢漬けですか、塩漬けですか、と八百屋は仰るわけです。
その八百屋は、甘酢漬けのらっきょう、塩漬けのらっきょうを自分でつくって、売っているのです。このまえの竹の子のシーズンでは、生の竹の子と、水煮の竹の子を両方売っていました。値段は見ませんでしたが、もちろん水煮の方が高いのでしょうね。
ということで、甘酢漬けのらっきょう、塩漬けのらっきょう、そして生のらっきょうの3つのらっきょうを売っているので、らっきょうください、とだけ言われても、そのうちのどれなのかは曖昧なまま問題として残るわけです。
その八百屋は、甘酢漬けのらっきょう、塩漬けのらっきょうを自分でつくって、売っているのです。このまえの竹の子のシーズンでは、生の竹の子と、水煮の竹の子を両方売っていました。値段は見ませんでしたが、もちろん水煮の方が高いのでしょうね。
ということで、甘酢漬けのらっきょう、塩漬けのらっきょう、そして生のらっきょうの3つのらっきょうを売っているので、らっきょうください、とだけ言われても、そのうちのどれなのかは曖昧なまま問題として残るわけです。
あなたを総合的に判断して、甘酢漬けのらっきょうか塩漬けのらっきょう、どちらかを買いたいのだろうと思ったわけですね。
日常はそのような事の繰り返しですね。
私が八百屋を観察してなにかしらの判断をしているのとおなじように、八百屋も私を観察してなにか考えているのです。それが意識的であれ、無意識であれ、です。
今回の場合は、私は男ですし、まだ彼らからみたら若いですからね。いまどきの若い男と、らっきょうを漬けるということを結びつける思考回路は、一般的ではないわけです。
そもそも、若い人がらっきょうを食べるという事もなくなりつつあることでしょうから、これはありうるべき事なのです。
しかし、ここで私が、いや、生のらっきょうが欲しいのですが、と言ったところで事態は急変するわけです。
鳥取産の良いやつがありますよ。
鳥取産が、一番おいしいし、下処理も簡単ですよ。
甘酢は、一度加熱した方が良いですよ。その後は、無気になって冷やす必要はないですよ。
らっきょうも、さっと下茹でした方が良いですよ。
などといったアドバイスをいただけるわけです。
そしてその後に、この決め台詞となるわけです。
らっきょうを漬けておくと一年楽しめますよね。
アドバイスから、共感に飛躍するわけですね。
ここでようやく、世代を超えた共感というものが生まれるわけです。
私も、1年くらい平気でもちますからね、
などといって応じることになりますが、観察し合う対象から、共感しうる間柄、に関係が発展したわけです。らっきょうが取り持つ仲、といったらおかしいですが、現実にそういったことが起きうるわけです。
そういったことがあったあと、1キロ700円という実に普通の値段で買ったらっきょうを、自宅で漬ける事になります。
私が気になるのは、らっきょうを漬けておくと一年楽しめますよね、という決め台詞は、あと何年生きるのか、ということなのです。
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